回顧録4

http://d.hatena.ne.jp/viper03/20050908
↑前のやつね


さて、時は2004年の春〜夏にかけてのあたり。
VIT型の台頭が一気に進んだ時代。
CC、RevLDT、フミ、BHを交えて
C4砦を中心に大規模戦が頻発した
この頃のGvは、
各同盟に4,5名は当たり前のようにいる雷鳥たちによって
チャットログがすぐに流れ、使い物にならない状況でした。


そこで導入されたのがボイスチャットツール。
teamspeak2を代表としたこのボイチャの採用に
よってCSの戦術速度は一気に高速化しました。


それよりもだいぶ前からちょくちょく使用はされていたのですが
ギルメンがほぼ全員ボイチャを聞くようになったのは
この頃くらいだったかなぁと言う気がします。


ボイスチャットの使い方は奥が深いです。
グダグダとしゃべっていてはかえって指示が通りにくくなり逆効果。
報告と指示、相談するメンツの整理ができてこそキッチリ機能するものだと
思います。
普段からつけてるとギルメンの親交も深まりますしね。





さて、歴史の話に戻すと、CC同盟が9週連続でC4を防衛中。
RevLDTはもちろん、BH、フミ、その他のギルドが幾度と無く攻め手に回り、
何度か危ない場面もありました。
あのころの防衛方法は、第1MAPのL字クランクで防衛線をしき、
抜けた敵は第2MAPか第3MAPの防衛線で殺していたました。
道が二手に分けられることの多いC4でのこの防衛線のしき方は、なかなか有効だったように思います。


7月も後半に入り、9週連続防衛が終わった頃、
そのGvは突然やってきました。


Rev+LDT+フミ+αの合同攻め同盟の来週。


僕はこの時鈴鹿の8時間耐久レースを観戦しにいっており、
電話で知らされた落城のニュースに大変ショックを受けたのを覚えています。
なので開幕スタダか、終了間際かどうかは覚えていませんが、
一度落とされた直後に取り返しにいった前衛はエンペまで到達できたものの、
圧倒的な物量の差に駆逐されていったとのことでした。
屈辱の敗戦でした。


商業ほぼ100のC4砦は、LDTがそこから8月の末まで6週間防衛します。
何度か遊撃にでたことはありましたが、
あまりに多い敵の人数に閉口した覚えがあります。
(そういえば関係ありませんが8月の末にGvが直前に中止になったりしたこともありましたね)


僕たちは9月に入るまで
FR同盟が放棄した商業100のL4に逃げ込み
C4を強襲するチャンスをうかがっていました。


そして、いきり立つギルメンを抑えて迎えた9/5に、終了間際バルキリーから一気にチュンリムに飛び
C4を強襲。
落城させました。
この週は商業100と95の砦を2つCCで確保し、
ギルド資産が一気に数百M増えたのを覚えています。


次週は放棄。
またしばらくして強襲。落城。
ゲリラ的に強襲するCCとC4を守りつつ遠征を飛ばすRevLDTフミ。
こんな構図が10月、11月までの3、4ヶ月続きました。
EMCの無い当時、長期防衛というのは非常にモチベーションの維持が難しく、
RevLDTフミも例外ではありませんでした。


まずフミが抜け、人員が縮小し、LDTから多数のギルメンが流出し、見る間に人数が減っていく。


あの時、あくまでも周りから見た印象なのですが、
RevとLDT・フミの立場、立ち位置に差を作りすぎたのがRevの失敗ではなかったのかなぁと思います。
LDTギルメンの反発を生んだり、フミが脱退したのもそういう感じがあったのだと風の噂で聞いた覚えがあります。


ゲームとしても最初にスタートした人からは3年近くが経過しており、飽きやモチベーションの低下、
鯖状況の悪化やリアル事情など
古参のGとしてはありがちな
いくらかの外因もあったのだとは思いますが。


2004年の冬。
中堅どころの同盟やCCが力をつけて伸びていく中。Revは縮小していき、
Gvの勢力図は2005年の前半で大きな変化を遂げることになります。
次回はその辺から。






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ここ触れてくれとか、あれ書いてとか、
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